古戦場の町 『関ヶ原』No.9
島津義弘陣跡(西軍)
笹尾山より南へ800m下った辺り、西軍布陣地のほぼ中央に「島津義弘陣跡」があります。関ヶ原の戦いで島津義弘率いる島津勢は、三成の西軍に属していました。
小早川が裏切ったのを皮切りに西軍が総崩れとなり敗北、島津勢も包囲されてしまいます。しかし島津勢は敵陣に突っ込んでいくかのよう前進し、敵の大軍の中を突破します。「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出ます。
背陣を最強の武器に変えたその決断こそ現代にまで語り継がれる「的中突破」です。
この「的中突破」により 島津勢は、かなりの数の武士が戦士しました。その中には副将であり義弘の甥にあたる島津豊久もおり、烏頭坂(大垣市)にて義弘を救うべく身代わりとなって討ち死にしました。実子同様に養育してきた義弘にとっては大きな痛手でありました。
その後、島津勢は辛い道のりを経て自国薩摩に帰り着きます。
帰還を果たした義弘公をしのび、鹿児島城下の武士たちが、鎧・兜に身を固め、夜を徹して義弘公の菩提寺である妙円寺を参拝しました。やがて現代でも鹿児島三大行事のひとつ「妙円寺詣り」として受け継がれています。武道大会、ウォークラリーなど年々盛んになっており家族連れなど多くの人出で盛り上がる伝統行事となっています。