古戦場の町 『関ヶ原』No.10
大谷吉継陣跡(西軍)
大谷吉継は、もともと九州の名門・大友氏の家臣の家の出だったが、豊臣秀吉の家臣として厚遇され文武の両方で大きな功績をあげた人物です。
実質的な総大将にして豊臣政権での同僚である石田三成との友人関係もよく知られている吉継ですが、秀吉死後、天下の動きは家康が有利だと見ていたらしく、三成の挙兵計画を聞かされた際に、頑固反対を唱えていました。しかし最終的には、三成の味方となり、西軍として関ヶ原に挑みます。豊臣氏への忠誠心か、三成との友情だったのか共に戦う決心をします。
戦術にも長け、 陣作りにも力を発揮した吉継は、小早川秀秋が陣取った松尾山と、笹尾山に本陣を敷いた石田三成との間に挟まるような位置で構えます。早い段階から秀秋の裏切りを予想していたため、松尾山の真正面に構え、もしもの時には防波堤になるつもりであったのでしょう。
最後まで戦い抜いた吉継でしたが、次々と味方の武将も討ち死にし、ついには追い詰められ「自分の首を決して敵に渡してはならない」と言い残し、切腹して果てます。
関ヶ原合戦における忠義の名将として、歴史ファンのみならず昔から根強く庶民から
愛された武将です。
現在”大谷吉継の墓”は吉継の側近”湯淺五助の墓”と一緒にひっそりと建っています。